第三十四回「KAIKAN」

   その日は晴れていた。もうすぐ梅雨明けも近い。
(みずきはどうしてるかなあ)
 世界史の授業中、幹人は教室の窓から澄み切った空を見上げていた。あれから三日経つが幹人とみずきはほとんど口を聞いていない。どうも、この前の一件、幹人の「パンツ脱げ」発言を口には出さないが、かなり根に持っている事がみずきのこころから窺えて話しかけにくかったからだ。
(間の者のこころが見える、かぁ)
 なんかめんど臭い能力やなぁ。幹人はそう思う。あの日、岬に話されてからその「見える」という事の解像度が日増しに強くなって来ているのが分かった。
それに伴い、別に知りたくも無い事まで分かって来た。例えば友美さんが最近まで生理痛で悩んでいたとか、みずきがちひろの分のおやつを間違って食べてしまって泣きながらおやつを探し回るちひろを見て言い出せず、自己嫌悪に陥っていたとか、そんなどうでもいい事ばかりが日常として幹人の脳裏にモニターされるのだ。
逆に食い物の事以外さして悩みが無いちひろに対しては、ちひろが次に何をしたいのかすぐ分かるのでいい遊び相手になる事ができ、この二三日でちひろはだいぶ幹人に懐いてきた。学校から帰ると「おにいちゃん、おにいちゃん」と寄ってくるちひろは素直に可愛かった。幹人はみずきもこの子くらい素直になれたらねえと思うのだった。
 そういえば連もここのところずっと休んでいる。別に珍しくもないが何か胸騒ぎを幹人は覚えた。
 一方、みずきは学校で憂鬱な気分で授業を受けていた。初日はあれほど質問責めにあっていたみずきだったが次の日からほとんどと言っていいほどクラスの子達が話しかけてこなくなっていた。無視されるだけならまだいいが、何だかみずきの方を見て、くすくすと笑われているような感じがしていた。
ブルマは体操服の中に入れない方がいいです。チラッと下が見えるのがナイス☆ やはり、あの堂脇と言う子が首謀者なのだろうか。
(あーあ、何だか知らないけど、おにーさんの言うとおりになっちゃったよ…。
意地張らないで素直に相談すればよかったかなあ…。でも、女の子にあんな事冗談
で言う、おにーさんもひどいよね…いや、でも結局は脱ぐ前に止めたんだし悪い人
じゃないんだよね…えっちなだけで…)
 みずきにしても「イジメられる転校生」と言うシュチエーションはTVドラマで学習していたのでそれなりの心構えはしていたつもりだが、いざ、自分が当事者になると言うことは思っていたよりも辛い事だった。一昨日は消しゴムが無くなっていた。昨日はノートが破かれていた。さて今日は何されるんだろ?
 みずきは憂鬱だった。
 二時間目は体育の授業。さんさんと照りつける夏の強い陽射しの中で五年三組の児童達はラジオ体操をしている。当然だが体育はみずきの最も得意な科目だ。
「はい、そしたらまず、今日は跳び箱しまーす」森木先生がホイッスルを鳴らして号令をかけると体操服に着替えた児童たちがわらわらと集まって校庭に整列した。
 みずきは尻尾がブルマーの外に飛びでないように極力縮ませてシャツで隠すと、五十音順に前から並んだ。あ行の名前が少ないので自動的にうぶかた姓であるみずきは女子の先頭に並ぶ事になる。跳び箱は三段、四段、五段、六段と体育委員の子達によって並べられ、各々、自分にあった跳び箱で練習する事になっていた。
(あんなの楽勝だよね)
 みずきは迷わず六段の跳び箱の列に並ぶ事にした。すかざず森木先生が「おっ、生方さんは女子やのに、いきなり六段か。チャレンジャーやねえ」と声をかけてきた。「え、あ、あたしこういうの得意なんです!」そう言って男子よりも先に、あまり速くなりすぎないように走って、ふわりと跳び箱を跳んだ。みずきにとっては敷居をまたぐくらいの実に全く何て事の無い動作だったが、その全く力む事の無い動作に一同が、特に男子が「ほぉー」と感嘆の声を上げた。
「生方さん上手いね。体操選手になれるわ」森木先生に誉められるとみずきも少し照れ臭くなって「は、はいありがとうございます」と下を向いて答えた。正直、誉められてとても嬉しかったが、すかざず聞こえてきた声にみずきは衝撃を受けた。

「なにあの子、ちょっとカッコつけてるんとちゃう?森木に誉められてそんなに嬉しいんかぁ。なぁ、六段の列、あの子だけにせえへん?」

 誰?
 思わず聞こえてきた声にみずきは振り返った。しかしほんの囁くような声だったので、さしものみずきも誰がその言葉を喋ったのかまでは分からなかった。
 そして、いつのまにか六段の列に並ぶ女子はいなくなっていた。
 もともと、六段を跳べる女子はそんなにいないが「跳べなくてもとりあえずやってみろ」と言うのが森木先生の方針なのでさっきまで元気な女の子が数人並んでいたのに今は運動な得意な数人のごつい男子がいるだけとなった。他の女の子たちは四段と五段のミドルクラスと言われる跳び箱で和気あいあいと尻餅をついたり、勢いよく跳んだりしてはしゃいでいた。
 人数が少ないので、みずき達の六段の列の子たちの跳ぶ回数は多くなる。最初は先生に誉められて嬉しかったが、みずきにとって、さしたる労力無しで楽々こなせられる動作なので段々と、空しくなってきた。
(なんか、つまんないな…)
 六段の列とは反対側の方を見ると三段でも飛べない運動が得意ではない所謂、「トロい子」たちが先生の励ましの元、悪戦苦闘して頑張っていた。
 みずきはまだちひろが生まれる前、母親と二人きりで奥間の技の練習をさせられていた頃を思い出して懐かしくなった。
(ちょっとあっちにも行ってみようかな)
「あのさ…」
 みずきの後ろから誰かが声をかけてきた。
「え?」
「…行かん方がええで」
 みずきが振り返ると声の主はハタ坊こと、山村丈という男子だった。
「どうして行ったらダメなの?」
「ダメって訳やないけど、運動得意の奴が向こうに行ったら、何かイヤミやろ」
「そう…なのかな?」
「それに今行ったら、『あいつら』の思う壷やで」
「え、でも、向こうに遊びで行ってる男の子もいるじゃない。ええと、黒萩くんとか」
「クラオ(黒萩)か。あいつは別にそういうキャラクターやから許されるだけやろ」
「あたしは違うの?」
「違うとかやなくて、みんながまだそうは思って無いんとちゃうかなあ…」
 丈も知らない事だったが女子の間ではみずきの事を「あの子、ちょっと可愛いからって意気(生意気)ってる」と言う何の根拠もない誘導情報がみずきが転校してきた翌日からバラ撒かれていた。丈はそれを長年の経験則から気配で感じていた。
「…でも、このままじゃいけないよね」
「まあ、そやけどさぁ」
「いいもん私、行ってみるよ。ありがとうハタ坊くん」
「そ、その呼び方はやめ…」
 丈が言いおわらないウチにみずきは走り去っていた。
「あーあ」
 丈は善意で最後までちゃんと注意しようと思ったのだが、どうも、みずきの少し憂いを帯びた可憐な顔だちを見るに、それ以上強く言えなかった。何だか気恥ずかしいのだ。そんな気持ちを抱くのは、湊貴代の姉の慧以外はいなかったはずなのに。
(マズイなあ…。俺、あの子の事好きんなったんかなあ)
 いったい何が『マズイ』のか、何故『マズイ』と思わなければならないのか、それは丈にもよく分からなかった。そして丈が気づかないうちに、その二人のやりとりをギヨこと湊貴代とドーワキこと堂脇涼子が見ていた。
「あの二人、仲よさそうやん」
 堂脇涼子がそれとなく貴代に話を振った。
「そうみたいやね」
「それにハタ坊が自分から女の子に話しかけるんも、珍しいやん。ギヨ以外に」
「そんな事、ないと思うけどなあ」
「ええん?取られるでぇ…」
「別に、ウチら、そんなんちゃうし…」
 貴代は軽く否定したが、涼子は最後の言葉の歯切れの悪さを見逃さなかった。堂脇涼子は別名、田中眞紀子と影で呼ばれるくらいに頭と口の回転が速く、噂を扇動したり、他人の感情を自分の意のままに操る事に暗い快感を覚える少女だった。
最初にその悦びを覚えたのは小二の時、「給食費紛失事件」、「クラスで買っていた金魚殺害事件」を自作し、実行犯を巧妙に誘導し、犯行に及ばさせてから教師も騙し、実行犯に全ての罪をきさせて自分が犯人発見者の英雄となり、しかも実行犯を庇うという、狡猾な超偽善者的犯行が完全犯罪として何度も成功し、しかもそれが未だに誰にも露見されていない事に始まる。
 涼子自身が勉強はできても色黒であまり皆にちやほやされないという劣等感に端を発するのだが、次第に涼子の心の中で劣等感を忘れる、と言う当初の目的よりも、若いシャチが獲物であるオットセイの子供の死体でバレーボールをして遊ぶ様な、一種、薬物中毒にも似た抗えない習慣的な快感のために動いているのだった。そう。誰にも気づかれない、私による私のための私だけのゲームなのだ。
 しかし一度だけ他の子に気づかれた事がある。幸いその人物は滅多に学校には来ない。その人物が来ない限り堂脇は常に影の女王として君臨する事ができるのだ。
「なあなあ、知ってる?ハタ坊ってさあ、他のクラスの女の子でちょっと噂になってんねんで」
「なに、噂って?」
「聞きたい?」
「うん、教えて教えて」
 ああ、エサにかかった。何と人の心の脆い事よ。涼子が経験で培った事は篭絡させる相手に対しては情報を小出しにする事、ほんの少しの危機感を煽り、相手の気に入りそうな情報だけを話す事。
 とてつもなく単純な事だった。その胸が弾むような高揚感は自分が、みずきに対して容姿が劣っているという自身の心の闇の為にこの様な行動に及んでいる事を、にわかに忘れさせてくれた。
「最近、カッコいいって。ほら、この前の球技大会ん時に」
「この前ってサッカーの試合ん時?」
「そうそう。連続ゴールしたやんか。結局ウチらのクラスの得点、ほとんどハタ坊が取ったようなもんやんか」
「う、うん」
 貴代も幼なじみが大活躍しているのを見て素直に嬉しかった事を思い出した。
「それでまあ、他のクラスの女の子の大注目になったって訳やね」
「ふうん、知らんかった」
 涼子は事実とほんの僅かな虚構を織り交ぜながら巧妙に話していく。詰め将棋にも似ていると涼子は思った。
「そんでさ、ほら、ウチって他のクラスの子らにも顔広いやん?だから色々と訊かれてん」
「そんで何て言うたん?」
「ん?ききたい?」
「ちょっと、いけずせんと教えてえや」
「いや、まあ色々と」
「ドーワキ〜」
 貴代がやや非難するような顔で訊く。この貴代とて、物凄い美少女という訳では無いが、誰彼となく人当たりがいい女の子だ。男子とも気軽に冗談を言い合うクラスの世話役のような存在だ。
 涼子は貴代も気にいらなかった。
「なあ、ギヨ。ここで改めて訊くけどなんでそんな話知りたいん?」
「え?…そら、気になるやん。あのハタ坊がそんな事になってるって」
「大丈夫大丈夫、その子らにはハタ坊にはあんたが居るから、やめときって言うといたから」
 涼子は「はいはい、しょうが無いね」と言う調子で話を切り上げた。
 気づいていなかった感情を自覚するレベルまでウチが引き上げてやったのだ。
(感謝しいや、ギヨ)
 そして、最後に涼子は底はかとなく嬉しそうな顔をする貴代の表情を確認して内心、ほくそ笑んだ。

(以下次回!)