第二十七回「HIRU」
杜若(かきつばた)ってのはアヤメ科の花です。
(あー、こわかったー) みずきが息を切らして走って家の近くまで帰ってくると店の前には大きな黒塗りの高級自動車が停まっているのが見えた。 (お客さんかな?) それから、みずきは立ち止まって後ろを振り返って見た。幹人が追ってくる気配は無い。 (あーあ、でもどうしよう。あの人(幹人)『まだ』何も悪い事してないのに突き飛ばしちゃって来たし。すごく怒ってるだろうなあ、せっかく相談に乗ってくれたのに悪い事しちゃったなあ。今度こそおかーさんに言いつけるだろうなあ。あーあ、なんで私っていっつも、こーなんだろ…。ちゃんと後で謝らなきゃ…) みずきがしょんぼりと歩いていると、いつの間にか店先の自動車が出ていく所だった。今のみずきには別に大して関係無い事だと思った。 みずきがもう一回大きな溜息をすると、目の前に誰かが立っていた。 「ちひろちゃんのお姉ちゃん?」 着物姿の女の子が目の前に立っている。白地の小袖には薄紫の杜若(かきつばた)の花の図案が染め抜かれている。みずきよりも少し下くらいの歳のやや舌足らずの声。 (はえー、綺麗な着物ー) みずきが感心していると目の前の女の子は何か懐かしそうな顔をした。 「はじめましてみずきさん。私、沙居と申します」 「あ、はい。はじめまし……あーっ、あの時の…」 みずきが思い出すと沙居はにっこり微笑んだ。 「あの時は急でご挨拶もできませんで。 しかし、こうして見るとほんまにあの娘によう似てはりますわぁ」 「え。似てるって誰に。ちひろ?そりゃ姉だから」 「いいえ、美夜(みや)さんに」 「……みゃ?」 「…さて、美夜さんとの約束もあるし、早速、奥間の技がちゃんと継承されてるかどうか見させて貰いましょか。さすがに唯間様の奥様相手では試せませんからなあ」 みずきが怪訝な顔をしているなか、沙居はもう一度にっこり笑うと袖から右手を出し、その指先から淡い紅色の四十センチくらいの爪が真っ直ぐに、微かな摩擦音と共に飛び出した。 「うわー!」 「ほな、行かせてもらいますえ。手加減はしますよってに」 そう言うと同時に沙居の右眼が碧色に光った。無音の踏み込みと同時に地面を滑り、長い小太刀状の爪をみずき目がけて繰り出して来た。みずきは鋭い斬撃を紙一重で躱すと、髪の毛が一本、ぱらりと切り落とされた。 「あ、あぶなー。な、なにすんのよー」 「上々。どんな剣豪でも普通の人やったらこれで頭部を両断されて即死してます」 みずきは空を蹴って回転をつけて着地し、間合いを取った。 「耳を倒してましたら戦いにくいでしょう?軽い結界を張っときましたから誰にも見えませんし安心してください。奥間の姫様」 「…な、知ってるの?し、しまっ…」 沙居は空中にいたみずきのすぐ背後に回っていた。みずきはすぐさま母親に教えられた通り特殊な図形を頭に浮かべ、沙居とみずきの間に【創重力】を形成し、光を通さない半球状の膜、空間断層を形成した。 「断層(シールド)形成の完成度がまだ甘いですよみずきさん」 沙居はみずきが構築した円く黒い空間断層を爪でカーテンを開く様に切り裂いた。 それから沙居は爪の先に黒い点を灯した。たちまち、その黒い点に向かって周囲の空気が引き寄せられる。 「う、うわー引っ張られるー」 空を蹴りながらも体勢が崩れたみずきは沙居の爪先に吸い寄せられた。 「所詮、まだ子供か…」 「あんただって子供の癖にー」 無慈悲かつ冷酷な碧色に発光する沙居の右眼はみずきを嘲笑うかの様にちろちろと輝いた。 「今日はここまでに…」 沙居がそう言いかけた瞬間だった。みずきの両耳が立ち上がりその眼が緑色に光った。 「フゥゥゥゥゥーッ!よ・く・もやったわねー。私は今色んな事でムシャクシャしてんのよー!」 みずきは沙居の爪先の寸前で体勢を建て直すと十数m後方の空中にフィギアスケートの如く空間滑走して高度十m付近で静止した。今は沙居を見下ろす体勢になっている。 「使うようー使うようー。おかーさん使っちゃうからねー。一回も試した事無いけど、今試す。あたしの傘かえせー!お気に入りだったんだからー、あのピンクの傘ー。あの子たち許さないんだからー!」 「何を言うてはりますんや」 「奥間重力奥義『非留(ヒル)』!」 …………。 周囲の空間が暗黒になる。全ての時間と分子活動が殺され、限りなく絶対零度に近づき、熱的に死んでいる世界が波紋の様に拡がり、もはや空間とは呼べない偽の事象に侵され存在という言葉さえ無意味になろうとしていた。 (やればできますやんか…) 沙居はほくそ笑みんだ。しかし沙居と言えども刹那もかからないに内にみずきが呼び寄せた虚無に浸かれば再起動は不可能となる。が、沙居は既に演算を終えていた。何故ならもうすぐ到着する頃だからである。沙居の体熱センサーは後方から来る人影を捕捉していた。 「あー、みつけたー。みずき!おまえ何してんねん!」 「っえ?」 幹人の声と共にいきなり暗幕を開いたかの様に光が戻ってきた。 「き、きゃあー」 みずきは自身の【創重力】が解け、落下していった。 「わっとっと」 みずきはすんの所で車道沿いの白いガードレールの舳先に着地した。 「わ、技が解かれた…?」 呆然とした表情のみずきは走ってきた幹人を見つめた。その間にに沙居はくるりと振り返るとたたたーっと幹人に駆けよった。 「うわ〜ん。あのお姉ちゃんが恐いことしてくるのー。お兄ちゃん助けてー」 「どどどど、どないしたんや。みずきに何かされたんか?」 「うん、ちひろちゃんと遊びたい言うたら叩かれてん」 沙居はヒックヒックと泣きべそをかきながらひしっと幹人にしがみついた。 幹人はいきなり日本人形のような綺麗な女の子にしがみつかれ思いっ切り嬉しかった。今日は三人も可愛い女の子(みずき含)と間近でお話しできるなんて盆と正月が一度にやってきたようだった。 「ほんまなんか?みずき!」 「ちちちち、違うよー。その子がいきなり。…あ、おにーさん、おでこから血が出てる…それって私のせい…?」 「おうよ、お蔭でこの幹人様は血塗れよ。言うとくけど俺は怒ってんねんからな!それにこんな年下の女の子いじめて。この事含めて、友美さんに洗いざらい言うからな!」 「え、ええーーーっ!?」 治りかけていた幹人の額の傷口が開いた直接の原因はみずきとは関係が無いのだが面倒臭いので全部ひっくるめて幹人はみずきのせいにする事にした。 まだ嘘泣きをしている沙居は甘える様な声で幹人に言った。 「ウチ、ちひろちゃんと遊びたい」 「やや、キミはそう言えば猫屋敷や…無かった。あん時の家の」 「ウチ沙居、言います。幹人のお兄ちゃん」 「俺の名前知ってんの?そ、そうか。じゃ家来る?」 「うん、行きたい☆連れてって」 ボー然としているみずきをよそに、幹人に手を繋いで貰いながらしなだれかかっている沙居はニヤリとみずきに笑みを投げつけてから悠然と歩いて行った。 (ま、これで四百年来の復讐も果たせた事やし、久しぶりに『非留』も見せて貰えた事やし、今日ン所は良しとしとこか。あの子には悪いけど美夜さんが種名様をとったりするんが悪いんや…) 沙居は<楽しく>なった。それにこの幹人と言う種名の血を継ぐ少年にも少し興味が沸いてきた。 (な、なによー、なによ、あの子ー、すっげームカツクー!何者ー?) 地団駄を踏んでみずきは悔しがった。反撃出来なかった事もそうだし、何か幹人を取られた様なそんな不思議な悔しさもあった。 「…ん?別に取られたって構やしないんだよね。別に私の物なんかじゃ無いんだし。それよりもどうしよう。問題なのはおかーさんだよう。おもいっきり叱られるのかなあ?ああ、私って、もしかして世界一不幸な美少女…」 みずきはぺたんとお尻をついて頭を抱えた。 「いよう、みずきの姉さん」 後ろから声が聞こえた。 「俺、俺。この前助けてもろた連義史。奇遇やね今から生方んとこいく所やねん。しかし何や生方の奴いきなり走り出して。先行ってんのかな?」 声の主は連だった。そしてもう一人、白い服を来た少女が現れた。 「あの、あの、あの、ちひろちゃんはお家にいらっしゃるのかしら?」 「は?」 みずきの頭の中は今やスポンジと化していた。 (つづく) |