第二十四回「RAKUEN」

   二十メートルの高度から濡れたアスファルトの地面に最少の動作で降り立った裕子はスカートの裾を直して髪を直してからきょろきょろと辺りを見回した。
前方に山。左手にも山、右手には田んぼ。後方には住宅地。
裕子は地元の商工会が新聞の折り込み広告に配った南が丘の地図を広げた。
「ええと…」
目指すは漢方薬局だ。それは分かった。地図にも『生方漢方薬局』とあり、場所もおおよそ分かる。だが、現在地がどこなのかが分からなかった。道家家の場所も頑強な結界のおかげか、地図には載っていなかった。
よく考えてみれば、東京から引っ越して来てから裕子はほとんど外出した事が無かったし、一人で出歩くのは初めての事だった。
「困ったわ。困ったわ」
ちひろの匂いを径間の嗅覚でたどる事も考えたが今は雨上がりなのでそれはあまり期待できなかった。とりあえず大通りに出てみて人に尋ねるしか無いと思った。
 とは言うものの、ここ数年間、家庭教師に来てくれる大学生の先生以外、道家家以外の人間と話したことがない。
「こわい人だったらどうしよう…」
自身の戦闘能力はそこら辺の格闘家など一撃で倒せる程だが、それはそれである。
(誰か、こわくなさそうな人はいないかしら)
 しばらく歩いてみた。
 スキップ♪
 スキップ♪
 久しぶりの外出なので裕子はなんだか心が弾んだ。しばらくすると、歩道の草むらに誰かが倒れていると言うか転がっているのが見えた。
(人だわ。どうしてあんな所で寝ているのかしら?)
 裕子はこわごわ近づいてみると、夏服の学生服を着た中学生くらいの少年だった。
 裕子はしゃがんでみて木の棒を拾ってちょんちょんと突いてみた。
「あ、あのう。こんな所で寝てたら、お風邪を召されますよ」
 だが起きない。
(も、もしかして、し、死んでるっ?)
 裕子は棒をぱらりと落とし、恐くなってさささと、身を引いた。

「…う〜ん」
 恐慌状態に陥ったみずきに突き飛ばされながら殴り倒され、倒れた拍子に後頭部が地面に激突して脳震盪を起こしてノびていた幹人は今ようやく目が覚めるところだった。
「…いたたたた。なんやねんあいつ…」
 どよ〜んとした意識と視界の中で「大丈夫ですか?」と呼びかける声が聞こえた。
「大丈夫な訳あるかいな。おもいっきり殴られたんやで」
「…まあ、暴漢に遭われたのですか?」
「ぼーかん…ん?」
 幹人の目の前に立っているのはみずきでは無かった。
「だ、誰ですか?」
 幹人の目の前には雑誌のグラビア写真から抜け出てきた様な美少女が立っていた。
足首まである長い髪、色白の肌にやや切れ長の目の可憐な容姿。いや、可憐と言うよりは精悍と言った方が似合うかもしれない。白いワンピースに帽子が『夏の避暑地の深窓のお嬢様』というイメージそのままで恐いくらいだった。

 メ、メチャクチャ可愛いィィィやんけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!

 幹人は動悸が高鳴り、瞳孔がが開き、血圧が上昇するのを感じた。緊張して脚まで震えだしていた。
「あ、どうもはじめまして。私、道家裕子と申します…」
 裕子は深々とお辞儀をして顔を上げて硬直している幹人を見て、あっと思った。
 土曜日に玄関先で見たちひろの兄だったからだ。
「あ、どどど、どうもすんません。ちょっとイキナリ人に殴打されましてててて」
 な、何か。もっと何か喋らなければ。幹人は目の前の美少女に脳細胞が沸騰するほどの極度の緊張を覚えた。
「まあ。こわい。いきなり人に殴られたのですか?」
「え、ええ。そ、そうなんです。もうそれは凶暴な肉食獣のような奴で…!」
「警察の方に連絡した方が」
「い、いえ、大丈夫です。心当たりはありますのでこの決着はいずれ俺自身の手でキッチリ、パッチリ、シャッキリ、ポッキリ、バッキリ、クッキリ、ドッキリ、カッキリつけますよ。ええ、つけねばならんのですここは一つ今後とも舐められない為にデスね毎回毎回こんな事やられたら体が保ちませんていやほんまハンムラビ法典で言うところの目には目鯨、歯には鼻糞キタナイナはははは〜ン♪ちなみに俺、生方幹人って言いまして近くのしけた漢方薬局が家なんですいやあ道家さんはお散歩ですか?ちょうど雨上がりですしねところで郵便番号は何番ですかあ学校どこですか血液型は何型ですかガタガタですか歯槽膿漏は歯周病菌のおかげでして横綱のお仕事はお相撲で今日もトレビア〜ンなええ天気ですねえええええ亀田のあられぇおちんちん♪」
 すっかり舞い上がってしまった幹人は早口になり、できるだけ話を引き伸ばそうとして自分でも何を喋ってるいるのか分からなくなっていた。裕子の方も幹人の話の九十%以上が理解できなかったのでとりあえず頷いておく事にした。
「あ、あのそれでですね。実はお話が…」
「歯?」
「いえ、歯ではなくて」
「歯ではない?これがほんとの歯無し(話)ケケケケケケケケケケケケケケケケ」
 顔を上気させた幹人はもはや正常な精神状態では無くなっていた。
(ああっ、どうしよう。地元の人と言葉が通じないなんて)
 裕子が困っているのをよそに、その内に幹人の額からだらだらと血が流れてきた。
あまりに興奮したので金曜の最初の晩にみずきに引っ掻かれた傷が開いたのだ。
「あの、血が…」
 裕子はポシェットからポケットティッシュが入ったマスコットの刺繍入りのフェルトの袋を取り出してティッシュペーパーで幹人の血を拭ってあげた。
 幹人は息を飲んだ。裕子のきめ細かい水蜜桃の様な肌が間近に迫って来ているのだ。おまけに黒髪から漂うフローラルの香りのリンスの匂いがそこはかとなく幹人の鼻腔をくすぐった。裕子の透明な白磁のような首筋はまっすぐ緩やかなカーブを描きつつある胸元に吸い込まれている。

 なんて柔らかそうなんやーーーー
 し、白いワンピースがたまらん
 白いワンピースを脱いで欲しい
 け、結婚してほしい
 このまま抱き締めちゃおうかなあ
 俺、学校退学になるかなあ
 いいや、あんなどうでもいい学校

         わ〜れは行くー青白き頬のままで〜♪

 今、幹人の頭の中で数百人の幹人の分身達が巨大なドーム型ホールの中でで谷村新司の「昴」を合唱している。

 手を伸ばせ。楽園はそこにある!

(つづくかもしれない)