第二十一回「YOUKO」

   フラッシュバック。
 陽子が初めて人を殺したのは七歳の時だった。
 大人の男の喘ぎ声を聞いたのも生まれて初めての事だった。
 なぜこの男の人はわたしを押さえつけるのだろう?
 わたしが何か悪いことをしたのだろうか?  まるで分からなかった。
 ささくれ立った男の大きな手が陽子の幼い身体を執ように撫で擦る。
 泣いて懇願しても、まるで聞き入れてはくれなかった。照りつける陽の光が細い陽子の髪をちりちりと焦がし、脂ぎった男の顔に汗を滲ませた。重いよぅ、気持 ち悪いよぅ。陽子は男が何をしているのかが分からない。
 黄色いセイタカアワダチソウの花が咲き狂う夏の工事現場で陽子は追いかけられて逃げ回った後に顔も知らない男に。殴られ押し倒され、服を脱がされた。
 ぬるぬると乳首を這う男の舌がとてつもなくおぞましかった。陽子は男の指を 噛んだ。力の限り。口に生暖かく、塩辛い男の血の味が拡がる。
「何すんねん」
 激昂した男は陽子を殴る。
 容赦無く。やがて抵抗虚しく下着ははぎ取られ、下腹部に身を八つ裂きに切り裂かれるような激痛が走った。更なるくるしみはそれだけで無く、陽子の悲鳴と喉か ら血が滲む程の絶叫の上で男は獣のようなうめき声を上げ激しく蠢いた。
 わたし、なにも悪い事してないのに。どうしてこんな事をされるのだろう?
 陽子は男が憎かった。同い年の男の子なら負けないのに。
 負けないのに。
 コロシテヤル。
 陽子の手が空を切る。その手が陽に焼けた男の顔に当たる。
 その瞬間、何かの図形が陽子の頭の中に浮かび上がる。

      汝、覚醒セリ、然ルニ運命(サダメ)ヲ与エン

 声が頭に鳴り響いた後、陽子は嘲笑(わら)った。自分の上にのし掛かっている 男がこれから残酷な死に方をするのが判ったからだ。男は気が触れたのかと怪訝な表情になる。それから男は周囲の視界が湾曲する光景を見た。それが男が見た最後 の光景となった。
 まず男の指が鯖折りになり手の甲に陥没した。今度は男が悲鳴をあげる。
 両腕が不自然に湾曲し、胴体にめり込んで行く。頭蓋骨がリンゴを擦り潰す様にパシュッと音を立てて炸裂する。しかし飛び散った脳漿でさえも、吸い込まれる様に胴体に引き寄せられて行く。スローモーションの様に両脚も同様に胴体に陥没 していき、正にダンゴ虫が丸まっている状態となり、更に圧縮は加速度的に速くなり、光をも吸い込む勢いで球状に爆縮していく。
 見る見る内に縮み、やがて針の先ほどの大きさの黒い点となった男の残骸はその存在の薄弱さに堪えられないように、ふっと消滅した。

   微笑みを浮かべてで横たわった陽子の上空では蝉の鳴き声だけが鳴り響いていた。

   運命は恣意。



ま、Web上ってことで(^^; 雨音が響く道の上。
 幹人は陽子に先程渡された紙をもう一度見てみた。そこに書かれていたのは、 『ダイエーハイパーマート四田店恒例一の市!青果精肉鮮魚がお買い得!』 スーパーのチラシに変わっていた。 「あれえ?」 そういえば今日は七月一日だ。毎月一日はこのスーパーの特売日だったのを思い出した。
 目を上げるともう小学校に到着していた。懐かしくもあまり思い出したくない 幹人が卒業した小学校の校舎が眼前に浮かび上がる。
 下校時間からしばらく経っているのか児童はあまり残っておらず、校門付近は 閑散としていた。 (さてどうするかな)
 すると、カバンを持ったみずきが雨に濡れながら出てきた。
 お、ちょうどよいところに。幹人は声をかけようとみずきに近づいた。
 案の定、みずきは家とは反対の方向に歩いて行こうとしていた。それから幹人は みずきが傘を持っていない事に気づいた。まさか雨が降っているのに忘れた訳では あるまい。 「おおい、みずき、そっち方向反対やで。それに傘どないしてん?」  くるりとみずきがこちらを向いた。雨の雫が毛先に玉になっていた。一旦前を見 て、もう一度振り返ると幹人の方に来てそのまま通りすぎて行く。表情は何かに 怒っているようなそんな頑なな表情だった。 (なんか知らんけどまたか…)
 今度も幹人はずんずんと歩いていくみずきの後を追う形となった。
「傘、どうしてん?無くしたんか?」
 しかし幹人の呼びかけにもみずきは答えない。
「風邪ひくぞー」
 幹人は後ろから傘を差し出す。
「いらない…」
 辺りはアスファルトと傘の布地を叩きつける雨音ばかり。
「……」 「……」
 雨音に続いて蛙の鳴き声も混じってきた。この近くには田んぼもあるのだ。 (しかし、俺、こいつの背中ばっかり見せられてんなあ)
 幹人は雨に濡れる頼りなさげなその背中を見ながら、学校で何かあった事を悟った。
「…傘、壊されたんか?」
 ぴた。
 みずきの足が止まった。どうやら図星だったらしい。ようやくみずきが振り返っ た。
「やっぱりな」
「なんで…わかるの…?」
 理由はおおよそ見当がついた。何しろ2年前まで幹人はあの小学校の児童なのだったのだから。目立ちすぎるのだ。それは奥間とかその様なものではなく、言葉と容姿が。みずきがごく普通の女の子だったとしても。それは同じだろう。
 どこにでもある事だ。幹人が小学生の時も同様の事があった。この子は同年齢の女の子と比べて跳び抜けてと言うには語弊があるが美形な方だ。おまけに言葉が標準語っぽいし、まして新参者だ。集団内のスケープゴートにされるにはまさに売って着け。次は消しゴムとか体操服とか隠されたりするんやろうなあ。のけ者にされ たりしたら遠足の時に一人で弁当を食うはめになる。あれはとても情けない気持ち になるわなあ。幹人は自身の経験から容易に想像できた。
 問題はこの子がそういう事の経験が無いと言うことだろう。今までの経緯から見て、みずきが「私、負けないりゅん!」とかそう言うポジティブ思考の性格では無さそうだ。思い詰めるタイプと見た。
 そう結論づけてから幹人は冷静に人の性格を分析している自分に驚いていた。
「単純な推理やな。まず、朝、みずきが傘を持っていったのを俺は見た。 で、今は傘持ってへん。傘は学校にあるわけや。転校生と言えば注目の的の代名詞やし、気軽に話しかけてくる奴もおればそうやない奴もおるやろ。 決め手はおまえ今、落ち込んでるし。結論は隠されたか、壊されたかや。 隠されてたら、無くしたと思てしばらく校舎で探してる筈やからな。 壊されてるんを見せられた方が精神的ダメージも大きいからな。それで濡れるんを分かって飛び出してきた」
 みずきは目を丸くした。正にその通りだったからだ。それにこんなに饒舌かつ 論理的に喋る幹人を見たのも意外だった。この二三日、呆けている顔しか見てい 無かったからだ。
 何となく、
 何となく、みずきは負けを認めるしか無いように思えた。意地を張るのも何だか 空しくなってきた。
「…何でだろ?私なにも悪いことしてないのに…」
「ま、とにかく、傘の中入れよ」
「うん…」
 急にしおらしくなったみずきは少しためらった後、幹人の傘の中に入ってきた。
 しかし、幹人は冷静な表情とは裏腹に、生まれて初めて女の子にカッコイイ事を 言って相合い傘に持ちこんでいる青春ドラマみたいなこの『状況』に大いに感動していた。
 おっ、なんか俺メッチャ、カッコええやんけ〜!
 だがそれも束の間だった。

(以下次回)