第十五回「YU−YAKE」

「おおい、ちょっと待ってえなぁ」
 幹人はスタスタとちひろを連れて歩くみずきの後を追った。夏至を過ぎた頃なのでまだ空は青かったがそれでも僅かに陽は翳りを帯びている。みずきはちひろの左手を 掴んで引きずるように歩いていた。
   幹人にとってははまだ昨日会ったばかりの少女のその薄っぺらい背中を追いなが ら米谷を舞うように蹴倒した時のあの凄まじさとのギャップに今更ながら奇妙な感覚を 覚えていた。
  だいたい何故、あの猫屋敷に入った途端にみずきの様子がおかしくなったのか 幹人には分からなかった。分からないがみずきが何か居心地の悪さを感じている事だけ分かった。そう思ってから幹人はみずきが居心地の悪さ感じているのを「分かっ た」のを何故分かったのか自分自身も分からなかった。
 みずきは幹人の声を受けて一回だけちら、と後ろを振り向いた。しかしそれだけで後は等速度で再び歩き始めた。ちひろはしきりに手が痛いと不平を訴えた。
「なんでそないに急ぐん?」
 幹人はようやくみずき達に追いついて息を切らせながら訊ねた。
「何だか尾けられてるんだよ」
「誰に?何に?」
「わかんないよそんなの」
 俯き加減にみずきはそう答えた途端、その脚を止めた。
「あれ?」
「どないしたん?」
「気配が消えた」
 みずきの言う「気配」とやらは幹人にはさっぱり分からない。とりあえず後ろを 振り向いて見た。しかしそこには斜めになった陽差しの反射光を受けて薄灰色がかっ たコンクリートブロックが四角く光っている路地が続いているだけだった。
「もういないよ。消えちゃった」
 少し落ち着きを取り戻したみずきは嘆息すると今更ながらみずきを叱り始めた。
「もうっ、なんで一人で勝手にいなくなっちゃうのよ!おかーさんもおとーさんも岬さんもすっごく心配してたんだからねっ!」 「だってだって…」
 さすがにみずきの強い調子にちひろの丸い瞳がじわりと涙の膜に覆われた。
「岬叔母さんに会(お)うたんかいな」
 幹人の呟きは無視され、みずきは堰を切ったようにちひろに当たっていた。
「何回も言ったじゃない、私達の事が知られたらもうここに居られなくなっちゃうんだって。やっとおとーさんと一緒に住めるってちひろもあんなに喜んでたじゃない!それに奥間の里にはもう帰れないんだからね!」
「…ごめんなさい…ごめんなさいー」
 それからちひろは大声を上げて泣き始めた。一日に二回も泣かなければならい事、それ自体がちひろにとっては大変な事だった。さっきまでいぬのおねーちゃんのお 家でお菓子を馳走になって幸福の絶頂だったのに今は家から勝手に出歩いた事で全人格を否定されているかの如くに叱られている。しかしちひろも言いつけを破って外に出た事に対するぼんやりとした罪悪感は持っていたので、耐えきれない心の荷 重を泣くという行為でしか表現できなかった。
「だってーだってー!」
 たいくつだったんだもん
「だって何ィー?」
 少々、ヒステリックになりかけているみずきはこの後に及んで弁解しようと試みるその妹のその態度に腹が立った。
「だってーだってー!」
 お外に行きたかったんだもん
「だから、だってって何ー?」
 興奮したのかみずきも半泣きになっていた。余程心配していたのだろう。
「あたしが見つけてなかったら、あの人達に何されてたか」
 いや、場所を特定したのは俺なんだが。幹人は手柄を取られた様な気分になった。
「いぬのおねーちゃんとおっちゃんやさしかったもん。わるい人じゃないもん」
「そんなの分かる訳無いでしょ!だいたい、あの家なんなのよ、まるで犬の…」
「おまえらその辺でやめとけよ」
 なかなか口を挟めなかった幹人だったが一瞬みずきが口ごもった隙をついて姉妹喧嘩を年長者らしく止めに入ろうとした。だが返ってきた文句は

       「何よっ!【カンケー無い】じゃない!」

 よく温もった浴室から全裸のまま氷点下三十度の冷凍庫の直中に瞬間移動さ られた様な涙が出る前に寒さで即死します的言葉にナイーブな幹人の心はじわりと 涙の膜に覆われた。
 だがすぐにみずき自身も言ってから「しまった」という後悔の表情が浮かべた。
「…か、カンケー無くはないよね。あたし達家族なんだし。…昨日からだけど」
「その、なんや…。ちひろちゃんも謝ってんねんからその辺にしたったら?」
 幹人は気をとりなおしてそう言うと。ちひろは自分の味方が現れたのを感じて、そろぉりと、幹人の短い足の側まで寄ってきた。
 幹人は昨日会ったばかりだが我が妹ながら抜け目の無い奴だと思った。
 実際、みずきにとって姉妹喧嘩を止めに入ってきた人間は母親である友美さんと幹人の父である繁を入れて通算でこれで三人目だった。
「いいよ、もう。帰ろ。陽がくれちゃうよ」
 みずきはしゃがんでちひろの涙をハンカチで拭ってやった。
 …それから三人はしばらく無言で家路に着いた。ちひろはまだ姉が怒ってると 思って幹人の手を握って歩いていた。幹人は小さなその手の肉球のような柔らかい手のひらをぷにぷにと親指で押してやるとちひろは「こそばい」と言って嬌声を上げた。幹人は相変わらず黙って歩くみずきに話しかけた。
「あ、あのさぁ」
「何っ?」
「みずきってメッチャ強いんやなあ。あん時は助けてくれてありがとう」
「強い?わからない。何かああいう時は体が勝手に動くの。おかーさんが教えてくれた奥間の技は本当は仲間を守る為のものだって。おとーさんがそう言ってた。 だから気にしないで。それからさっきの事、おかーさんには言わないでね」
「うん、わかった」
 よほど母親が怖いらしい。
 幹人がそう言ってからみずきはとても困ったような顔で振り向いた。
「あの、家ってどっちだったっけ?」
「何や迷っとったんか。やたらに自信もって歩くから何か他に用事あるんかと 思った」
「わかる訳ないじゃない、昨日越して来たばかりなんだから」
「おまえ、夕べ別に案内してもらわんでもええって言うたやんけ」

「…ごめん明日案内して。この街、広すぎてやっぱりわかんないや」
ゆーうーやーけー♪ 結局、家とは反対方向に歩いていたので元の場所に戻って来たのは六時を過ぎていた。
空はようやく茜色に染まりだし、柔らかくなった光が所々に点在する水たまりをプラチナ色に発光させ、小さく揺らめかせていた。
「あ、あのさ」
 今度はみずきが口を開いた。
「昨日はその、引っ掻いて…ごめんね」
「ええよもう」
「まだ痛い?」
「ちょっとな。まあ、あの本は貸したるし心配せんでもええて」
「えっ?う、うん、ありがとう」
 みずきが安心したような顔を見て幹人は何故自分はみずきが本を借りたがっているのを分かったのか不思議に思った。その事を言うまでそんな事があった事自体完全に忘れていたのに。
 夕焼けの透明なオレンジ色の光が幹人達を通り抜けていった。
「おねーちゃんきれーだねー♪」
 ちひろが嬉しそうな声を上げた。
「そうだね」
 みずきもやっと笑った。
 街中の全てが橙に染め抜かれ光によって建物の全てが音もなく沈み込んで行くほどに鮮烈な美しい夕焼けだった。
 ちひろはこの日の夕焼けの事をいつまでも覚えていた。
 それは三人が同じもの見、同じ事を感じた最初の日だったから…。

 そしてこの物語はここから始まる。

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