第十四回「SAI」

 雨上がりの四田駅に降り立つと改札の駅員に地図の紙切れを渡して彼女は尋ねた。
「失礼します。お尋ねしたいのですが南が丘のこの辺りにはどのように行けばよろしいのでしょうか?」
 駅員は見た目がオカッパ頭の十歳くらいの少女としては似つかわしくないはっきりした物言いと丁寧な言葉使いにいささかの驚きと違和感を覚えた。違和感を覚えたもう一つの理由は言葉遣いだけではなく、服装が和服だったからだ。藍地の絣(かすり)の着物を当然の様に隙無く着こなしていてまるでどこかのかわいい「日本人形」がそのまま等身大になって歩いている様な錯覚を感じた。無論、それはある意味、錯覚であり、ある意味では真実を突いているとも言えた。
 駅員は指し示された地域が高級住宅地であり、今日が土曜でもあったのでお茶か何かの稽古事でもあるのだろうと自分を納得させて最寄りのバスの停留所を教えた。
「お忙しいとこ、申し訳ありませんでした」
 少女は教えてくれた駅員に慇懃に頭を下げて礼をするとバス停まで行き、時刻表と路線図を見て太陽に向かって手をかざして時刻を計った。少女は人差し指と親指と中指を精巧な六分儀の様に使い一千年前に教えられた通りに計り終えると徒歩で充分だと判断して目的地まで歩く事に決めた。元々、歩く事は沙居(さい)にとっては至極当然の事であった。かつては京から奥州までの数百里(一里=約 3.9273Km)を海路が使えない時には歩くしか無かったからだ。
 風は凪いでいて梅雨の湿った空気が辺りを漫然と漂っており、遠くに見える山々の緑が少しだけ黒っぽく見えた。何台かの乗用車が沙居を追い抜いてゆく。
 自律人形(じりつひとがた)である沙居は吸気して空気中の水分を取り込み、光によってそれを分解して当面の動力源を確保すると改めて周囲の風景を見渡した。
(また景色が変わってますなあ)
 と沙居は<思った>。ここ百年の時間の進み方は加速度的になっているようでどうもしっくり来ない。事実、沙居が創られた十世紀末の自転周期より現在の一日は若干速くなっている。水分を光分解し、ナノマシンによって各細胞部品を再合成し続ける半永久機関を持った沙居の生体寿命は四千年以上であり、破滅的な外的損傷が無ければ今しばらく稼働し続けるだろう。その彼女にとっての時間の観念は製造六百年を過ぎた頃から意味が無くなっていた。
 角を曲がる時に「四田市保護指定樹木」のプレートが張られた大振りの欅(けやき)の樹が目の前に現れた。それでもそれは沙居よりは歳下だ。
(この樹ぃはどないに思ってはるんやろ?)
 その表面思考波が沙居の感情論理シナプスに浮かび上がって来ると「植物に対して擬人表現をする」という詩的表現を教えてくれたかつての主人の事が関連記憶情報として記憶葉上からロードされ、それが「懐かしい」という名前の形容詞に変換された。
(…アホらし。早よ行こっと。裕子お嬢さんも待ってるやろし)

「あ、あの…」
 幹人はその背後にある巨大な柱時計に負けず劣らずデカい体躯のおそらく執事である男の存在感に圧倒されていた。
 みずきと言えば幹人の背後に隠れて警戒した目つきで射すくめる様に見ていた。
「しばらくお待ちください。只今参りますので」
「はあ…」
 すると奥の廊下からこれまた背の高い老人に抱っこされたちひろが現れた。
「あ、ちひろー!」
 幹人の背中に隠れていたみずきが声をあげた。
 はぐはぐと一心不乱にシュークリームを食べていたちひろの左耳がだけがこっちを向いた。それを見て幹人は器用な奴だと思った。というかモロにバレてるやん!と幹人は蒼白になった。
 ああ、さっそく猫人間だというのがバレてしまったのか。どうしよう。テレビのワイドショーとか大挙して押し寄せて来るんかな?「発見!猫人間は実在する!」
「驚異の人間の亜種発見!」最近はあまり見ないその手の番組や雑誌の類の見出しが幹人にも容易に想像できた。興味本位の人々の好奇の目にさらされるのは目に見えている。いや。自分はいい。まだ当事者ではないのだから。可哀想なのはこの子たちでは無いか。さようなら平穏な日々。
「あ、おねーちゃん」
 幹人が暗い予感に思いを巡らせている時、ちひろはみずきと幹人を見つけて声をあげた。そして老人の腕の中から降り立つとだーっと駆けだして幹人達の前にやってきた。
「だめじゃないのちひろ!勝手に飛び出して人の家に上がり込んじゃ」
「…ごめんなしゃい」
 みずきの強い調子の言葉にテヘっと舌を出すちひろは相変わらず何も考えていないヘラヘラとした笑顔を浮かべた。
「いやまあ。そう怒らんといてくださいな」
 幹人の目にさっきまでちひろを抱っこしていたやたらに背の高い爺さんが口を挟んだ。
「なんかね、家に迷い込んだみたいでね、可愛かったからちょっと引き留めてもうてこっちが悪いんですワ。ほんまはすぐ家に帰したらんとあかんかってんやろけどね。ほんなら、ちひろちゃん。お兄さんらが迎えに来たからもう、お家帰り」
「うん。ちーちゃんお家、帰る。バイバイおっちゃん」
「どうもすんません。なんか迷惑かけたみたいで」
 と幹人が何とか声を出すと。老人は一瞬、幹人を観察するような目で見ると
「いや、別に構へんですよ。それにしても…可愛らしい耳飾りやね」
 ちひろの耳の事だ。みずきはちひろの頭を抱きすくめて老人を睨んだ。
「でしょ〜。最近流行ってんですよ〜」
 幹人は適当に相づちを打って何とかごまかす事にした。するとちひろは突然、みずきの腕の中から頭をひょいと出して「あのおねーちゃんは?」と声を上げた。
「誰?あのおねーちゃんて?」
 みずきは訝しげにちひろに尋ねた。
「いぬのおねーちゃんだよ!」
 犬、という単語に老人と傍らに控えていた執事の動きが一瞬静止した。
 当の「いぬのおねーちゃん」である裕子は廊下の角から玄関の様子をうかがっていた。裕子は祖父である綾二郎から控えるように言われていたので直接には表には出ないで物陰から様子を覗き見ていたのだ。
(私と同じくらいか少し下の女の子があの子のお姉さんなのかしら?スカーフ
(バンダナのこと)で頭を縛ってるからあの耳があるかどうかは分からないわ。それと後、隣に立っている学生服の男の子はお兄さんなのかしら?ああ、あの人達ともお友達になりたい…。でもこわい)
「騒がしいですねえ。何事ですか?」
 その時、玄関の格子戸が勢い良く開いた。
 幹人が振り返るとそこには和服姿の女の子が立っていた。
「あ、沙居着いたんか」
 綾二郎が口を開くと間髪入れずに沙居は答えた。
「はい。お館様がくれはったこの地図、何や端折って書いてあったから、ここ見つけんのえらい苦労しましたわぁ。…お客様ですやろか?」
 微妙に京都訛がかかったはっきりとした、しかしそこはかとなく舌足らずなその言葉を話すその少女の整った容貌に幹人はしばし見とれてしまった。
 するとみずきは幹人を押しのけて前に出ると
「妹が大変お世話をかけました。お礼は後日改めてさせていただきます。申し訳ありませんが今日の所はこれで失礼いたします。」
 と幹人がびっくりするほど完璧に礼の言葉を述べたみずきはちひろを抱きかかえて玄関から風の様に出ていった。
「…え?」
 一人取り残された幹人はどうしていいか一瞬分からなかった。目の前には大柄な大人の男が二人、すぐそばには小四くらいの着物を着た女の子が立っている。
画像ファイルはこのくらいがええどすな。「えーと…」
 幹人はきょろきょろと辺りを見回すと。
「ほな、そろそろ晩ご飯やし僕も帰りますワ」
 と何とかそれだけ言うとみずきの後を追うようにと言うか逃げる様に玄関から出ていった。
「沙居さん!」
 幹人が出ていくのを見計らって裕子はスリッパをぱたぱたと鳴らせながら沙居の所まで駆け寄った。しかし、すぐさま近寄るにはにはカーネル・サンダースの立像が邪魔だった。こんなもの誕生日プレゼントに欲しいって言わなければよかった。
裕子はほんの少し後悔した。
「お嬢様。横になってんと大丈夫ですか?」
 沙居はちらりと息をきらす裕子を仰ぎ見ながら言った。
「それよりも沙居さん!」
「沙居、どない思う?」
 と綾二郎の問いに沙居は腕組みをして形ばかりのため息をした。
「朝霧さん。あの子らの後、尾けといてくれますやろか」
「かしこまりした」
 執事の朝霧はそう言い終わると一瞬の内に姿を消した。
 それから幹人が出ていった方向を見ながら沙居は一人呟いた。
「おもしろおすなぁ。これやから生きてんのやめられへんねんなぁ」