幹人が住む兵庫県四田市は神戸四ノ宮駅から地下鉄で北上する事、1110円の区間(約1時間)に位置する山間の地方都市だ。最近は宅地造成が盛んな事もあって四田ニュータウンの異名もとられている。大阪の人間から見る四田市とは肉牛の四田牛のステーキ専門店『四田屋』とスケート場の『四田スケート』くらいしか印象に浮かばない言ってしまえば地味な存在だ。東京の人間に至っては四田と言えば「よだ」と読む都内の某所を指す地名であり決して「よんだ」という読み方は思い浮かばないし、そんな街がある事など知る由も無い。例えて言えばアメリカ人が日本は中国と地続きだと思っているのに等しく、日本人の大部分がコートジボアールの位置を世界地図から瞬時にして見つけ出せないのと同じ事だ。
彼の通う私立四田学園は関西私立進学校の端くれに位置する地元では結構名の知れた存在だ。幹人がこの学校を受験した理由の内容は家から近かった事、地元の公立中学は校則で頭を丸刈りにしなければならない事、自転車通学者は白いヘルメットを被らなければならないのが非常に嫌だったからだ。その様なわけで小学生の頃、幹人は父親の勧めもあって毎週末には神戸の塾に通い、夏休みには大阪まで電車で夏期講習を受けて頑張った甲斐あり何とか合格したのだが要するに合格できただけで今では落ちこぼれてはいないものの所謂、「ごく平均的な生徒」になってしまっている。 なんとか現状を維持し、突然白痴にでもならない限り学園の高等部には入れるのだ。ともすれば、彼の在籍している学園全体が公立中学には無い独特な倦怠感が蔓延していた。もちろん向学心があるものはちゃんと勉強をしているのだろうが、学園の文化を形成しているのはこの大部分の層なのは疑いようも無い。 彼は平均的に言ってもあまり身長が高くなく脚も短く、どうみても容貌がパッとしないのでその年代の大部分がそうであるように女の子にはあまりと言うかほとんど縁のない日常を送っている。男子校ならまだしも四田学園が共学なだけにその事は余計に幹人とって寒い事だった。 そんな訳で幹人はもうそろそろ近隣の住民が思っているほどの緊張感があまり無い学校に登校しなければならないために身体をベッドから起こさなければならなかった。 その時だった。 部屋の扉がバタムという音を響かせながら開いた。誰だ?と思った瞬間、幹人の頭上に黒い影が浮かび上がった。 人影だ。丁度、幹人の直上から自由落下してきていた。 ・・・こ、 ・・・これは!? これはフライングボディーアタックの体勢だっ! 「に゛ゃーーーん!」 光が遮られて影になっている顔には子猫のような縦目だけがキラリと光っていた。 ちひろは元気一杯に父親が奥間の里に来たときに朝いつもそうやって起こしていたように思いっ切りフライングボディーアタックを敢行したのだった。 が、そんな事を知る訳もない幹人は父親なら軽くよけられたであろう、ちひろのフライングエルボードロップがモロにみぞおちに入ったのだった。 「ぐふっ」 マジで痛かった。 「あさだよう、あさだよう。おきなきゃだめだよう〜♪」 ちひろは無我の笑顔でへらへらと笑いながら幹人の上半身に跨って身体を揺さぶっていた。 「ちーちゃんね、ちーちゃんね、もお顔洗ったよ。えーとね、えーとね、それでね、 今ね、おかーしゃんがたまごやき焼いてるの!」 ふーん、ほー、そーか。それは良かったな。幹人はそう言いたかったが今だとても幼児とは思えぬ技の破壊力から回復できずにいた。 「どしたん?」 反応がない幹人にちひろは身体を揺さぶるのをやめてキョトンと幹人を見下ろした。 「いやその、目茶苦茶痛かったんやけど・・・」 2秒間の沈黙の後、 「あさだよう、あさだよう。おきなきゃだめだよう〜♪」 再びちひろは身体を揺さぶり始めた。 聞いちゃいねえ。 しかしながら幹人はこうやって小さな妹に揺さぶられて起こされるのもなかなか快感かもとか思い始めていた。特にこの振動が「思春期の少年の朝的現象」を若干刺激するような感覚、何かそう思えば非常に卑猥な体勢でもあった。 あぁん☆ 幹人は思わずおかまのような呻きを洩らしたその時、 「・・・何やってんの?」 みずきが薮睨みで顔を扉から出してボソッと呟いていた。 「はっ!」 「あ、おねーちゃん」 ちひろは幹人の上半身に跨りながらみずきに向かって振り向いた。 「・・・やあ、みずき君おはよう」 幹人は首だけ起こして硬直した笑顔でみずきに挨拶をした。 「・・・ちひろにヘンな事したら【殺す】からね」 みずきはそう言い放つとドアを勢い良く閉めて出ていった。 「おねーちゃん、おこってるね」 ちひろは相変わらず何も考えていない顔で、にーっと笑った。 台所のテーブルには既に父親の姿は無かった。友美さんは幹人に紅茶をいれてくれながら、転居手続きやその他の申請に出かけたと説明してくれた。そして 「あら、幹人さん、その引っ掻き傷、どうしたの?」 と、心配そうに尋ねてきた。 無表情でトーストを齧っていたみずきの動きが止まる。冷や汗を流しているのが幹人には判った。 「いやその、ちょっと不注意で・・・」 幹人は疲れた微笑を浮かべた。不注意、そう、この言葉に嘘はない。 「あら、そうなの・・・」 と言いながら友美さんは視線を落として目を逸らしているみずきを見た。 「いや、その薬、塗っとけば治る程度なんで・・・」 取り繕う様に幹人が言うと少し安心したのか友美さんは 「・・・そう、はねっかえりだけど仲よくしてあげてね」 と、クスリと笑うとトーストを両手で持って塗られたバターをペロペロと舐めているちひろの頭をこつんと叩いて 「ちひろ、その食べ方やめなさいって言ってるでしょ」 と優しく注意してから幹人に向かって微笑んだ。その視線をみずきも追う。友美さんに告げ口しなかった事に対する小さな驚きが不思議そうな視線となって幹人に注がれた。 |