第六回「KIZUATO」

   外は雨だった。
 今は六月であり、梅雨の最中なのでこれといった驚きは無い。幹人の部屋の窓から見える雨雲はそれほど厚くなくライトグレーの柔らかい朝の光が差し込んできていた。
 窓ガラスの外側にはカタツムリがへばりついていて穏やかに蛇行した軌跡が雨の雫と共に光っている。
 机の上のデジタル時計は7時15分をさしていた。起きなくてはいけない。
 幹人は起き上がった。目覚ましが鳴る前に起きられたのは実に久しぶりの事だった。しかしながら決して目覚めが良いという訳でもなかった。
(何か、昨日何かが起こった様な気がする。・・・何だったっけ?)
 幹人はとりあえず記憶を整理する事にした。
(ここはどこだっけ?)
 兵庫県四田市(よんだし)の自分の家だ。
(俺は誰だ?)
 生方幹人。私立四田学園中等部2年1組の男子中学生。漢方薬局を営む父親と二人暮らし。
 いや。
 昨日の午後4時半過ぎから漢方薬局を営む父親と再婚した義理の母とその連れ子の少女と父親とその再婚相手の間に生まれた自分の腹違いの妹の5人家族。
 ここまではよくある事。(たぶん)
 そしてその新しい母親と新しい二人の妹の三人は生方家が代々かかって遺伝子改良した人間の品種改良一族の末裔・・・。
(うーむ)
 幹人は今だ記憶が混乱していた。そして無意識に髪をかきあげようとして額に手をあてた。
「いってー!」
 何かの引っ掻き傷が額のあたりに縦に走っている。幹人はベッドの隣の引出しからガラクタに埋もれた手鏡を発掘すると薄ぐらい室内の照明の中、自分の見飽きた、というよりもあまり見たくない顔を映してみた。すると額に見事なまでに五本のまるで猫に引っ掻かれた傷痕がミミズばれに浮かび上がっていた。
 猫?
 幹人は昨晩の事をようやく思い出し、またベッドに寝転びながらため息をついた。

「みずき、幹人さんを起こしてきてくれない?」
「え゛?」
 台所でテーブルに皿を並べていたみずきは母親の友美の言葉に思わず固まった。
 友美は卵焼きを作っていて手が放せないようだ。
「もうそろそろ起こしてあげないと幹人さん遅刻するでしょ?」
 どーしてあたしが?という言葉をみずきはすんでのところで飲み込んだ。
 昨晩、みずきは新しい兄に対する態度を母親に叱責されて少しだけ(少しだけ)反省して仲直りしようと幹人の部屋へと訪ねて行ったのだ。みずきにとって男の子の部屋に入るのは初めての事だったのでちょっと緊張した。部屋は想像してたよりは結構片づいていて話してみると新しい兄の少年は見てくれよりは案外いい人間だと思うようになっていた。何より同じ本を読んでいたという親近感が嬉しかった。
 が、
 そこでみずきは生まれて初めて自分の想像を絶する程の猥褻な「有害図書」を見つけてしまった。みずきにしてみればそのような類の書物を喜んで見る人間は人知を越えた変質者であって社会の敵であって駐在さんが刑務所に連れていく類の悪人だという認識であったので即、自分が奥間(オウマ)の者として覚えた、覚えたと言うよりも母親に叩き込まれた攻撃の型の全てを幹人目がけて放ったのだ。その技は完全に入れば例えみずきが子供で相手が大人だったとしても全治二カ月以上の重傷を負わせられる筈だ。しかし最初の渾身の回し蹴りはほとんど紙一重の差で躱された。それ自体、みずきにとっては衝撃的な事だったが次の二撃も躱された事で嫌悪は恐怖に変わった。どう見てもボーっとした少しだけ年上の少年にしか見えない幹人に対して底知れぬ物を感じた。かつてみずきは奥間の里に迷い込んできた野生化した土佐犬を一撃の元で倒した実績がある。なのに何故?みずきはこの時初めて分校の図書室にあったことわざ事典の一説「上には上がいる」という言葉の意味を本当に理解した。(と、その時は思った。)
 みずきは半泣きになりながらこの自分よりも遥かに凌駕する(と、その時は思った)敵に半ばヤケクソで顔めがけ引っ掻いた。それが以外にもヒットしたのでみずきはすかさず全力疾走でちひろが寝ている二人の部屋へと逃げて来たのだ。
(あーあ、あんな恐いと思った事なかったよ。もし、あのまま逃げられなかったら・・・・。えーと、逃げられなかったどーなってたんだろ?あの本の女の子みたいに裸にされて天井に吊されてたのかな?)
 みずきはあの時気が動転していたのにも関わらずエロ本の内容を全て暗記していた。いついかなる時も一瞬でも視覚に入った映像は細部に渡って記憶できるのはみずきの特技の一つだった。
 そこにタオルを持って起きたばかりのちひろがパジャマ姿でトコトコと歩いて来た。
「おねえちゃんおはよう」
「え?ああ、おはようちひろ」
「あのねおねえちゃん、ちーちゃんもう、かお洗ったよ」
「そう。・・・・・・あ、そーだ。ねえちょっとお願いがあるんだけど」
「・・・なに?」
「あ、あのねえ」
 みずきはちひろに対して話そうとしてその内容に躊躇した。
(ちひろにあの人を起こして来てもらうようにお願いしよーと思ったけど、もしかしたらこれはかわいい妹を危ない目にさらす事になるかも。ああーん、おかーさん、どーしてあんな奴のおとーさんと再婚なんかしたのよう)
 みずきはしかめっ面をして腕組みをして悩んでいると台所から急かすように友美の声がした。
「みずき、早くね」
「・・・・あ、はーい」
 とは言ってはみたものの。
「はやくって、なに?」
 ちひろはみずきを見上げながらそのスカートをくいくいと引っ張った。
「うん、えーとね。お兄ちゃんを起こしてって事・・・・」
「あのおにーちゃんおこすの?じゃ、ちーちゃんが行ってくる!」
「っえ?」
 みずきが声を出そうとする前にちひろはみずきの目にも驚異的なスピードでばびゅーーんと階段を四つ足で駆け上って行っていた。